2017 / 11
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ジャーマン・アイリスが終わるとバラの季節になる。ジャーマン・アイリスがとても華やかだったのでちょっと物足りない感じもするが、、、

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バラはスタンダード仕立てが中心で、種類もモネが育てていた頃のオールドファッションなものが多い。

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ところでモネが庭を作るに当たってどの庭を参考にしたのだろうかと思う。パリのバガテル公園は1905年にパリ市が買い上げて整備されたはずだから、モネがジヴェルニーに移ったころにはまだ公開されていなかったと思われる。しかしリュクサンブール公園は歴史があるので当時も市民の公園として開放されていたと考えられるが、モネが目指していたのは都会風な庭ではなく、ポタジェの延長のようなノルマンディー風なコテージ・ガーデンだったでしょう。

多分家の近くから少しずつ手を付け、広がっていったもので、試行錯誤の末自然にこういう形になって行ったモネのオリジナル・デザインの庭なのではないかと想像する。
モネの庭に関する本も読んでいないし研究もしていないので間違っているかもしれないが、、、

モネは絵を描いているとき以外の大半の時間をガーデニングに費やし、庭も一つの芸術作品として創作したことは間違いないでしょう。

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【】
きのうコメントできればよかったのですが、まだ未読の部分があったもので、、、。

モネがこの農園を借りた当時は家と菜園と林檎くらいしかなく、家族で
食べるために野菜を作っていたらしいですが、アメリカで個展が成功してから
大幅に家と庭を作り変え、「すべてのお金は庭に消えた」と友人に語るほどでした。
まるで絵画制作は「妻」で、庭は「恋人」のようだったともあります。
絵の制作に精根使い果たしたあとは花々で癒されたみたいですね。
モネは野菜より花を植えたかったらしく後に菜園は別の場所へ移したそうです。
リンゴの代わりに桜やアンズが増えていきました。

モネは造園にあたってどこの庭を参考にしたかは本にも記載されてません。
小説家や批評家、政治家のモネの友人たちはいずれも庭作りに夢中で、
文学や哲学や政治の高尚な話の合間に庭つくりのあれこれを情報交換しました。
モネは当時のほとんどの園芸カタログ雑誌に目を通し、花市や雑誌に掲載された
庭を訪れ日本の浮世絵版画も多数コレクションしてヒントを得ていたようです。

今からは信じられないことですが当時の印象派の画家たちは画壇で異端者扱いで
冷遇、嘲笑されパリのサロンでも落選し貧しい生活を強いられたようですね。
モネの絵が売れる30年前からめんどうをみていたパリに住む
画商デュラン・リュエルがアメリカで精力的に動いた結果、個展を開き
幸運を手に入れこの家も買えたそうで、モネ亡きあと、庭が荒れ放題で
復元できたのもアメリカの(画家たちを含む)多数のパトロンたちのおかげでした。
アメリカの裕福な人たちが手を差し伸べてくれなかったら
モネは貧しいまま亡くなっただろうと書かれています。

印象派画家であるモネが作った庭は自身の絵画そのものだったのでしょうけれど、
復元された当初と現在の庭とは同じではなく以前はもっと自然な植栽だったようです。
莫大な維持費がかかる庭なので、大勢が訪れる入園料は大きな収入源ではあるけれど、
観客はいつも感動や刺激を求めるためショー的な見せ場を考えなければならなくて
植栽も少しづつ変えていかなければならない事情や、
立ち入り禁止の柵や立て札があってもカメラを持って奥に入る人もいて
養生中の苗が傷むなど頭の痛いことも多々あるようですね。

(モネの庭/花々が語るジヴェルニーの四季 西村書店より)
【】
詳しいコメントをありがとうございます。
自分で読めは良いのですが、とても忙しくてなかなか時間がありません。

植わっているチューリップの品種は新しいものが多いのでモネの頃とは違ったのではないかと思いました。ジャーマン・アイリスにも同じことが言えますね。
画商のデュエルはもしかしてユダヤ人だったのではないでしょうか?ユダヤ人だと財界や政界に強いネットワークがありますから。

どの庭でも言えますが、観光客が多いと1年中花を咲かせないとならないから大変でしょう。
【】
デュラン リュエルについては元々画商の息子だったらしいですが出自についてはわかりません。
後のインタビューで「相手がアメリカ人でなかったら私は失敗していただろう。
彼らは鼻であしらうことなくつつましく絵を買ってくれた。」と答えています。

ユダヤ人は商才に長けているようですから、30年(20年?)も手をこまねいて
売れないままのモネのめんどうを見続けていたでしょうか。
アメリカ行きは背水の陣だったような気がします。
ジヴェルニーの家を借りたものの、モネは後の妻になるアリスや子どもたちを
呼び寄せる汽車賃すらリュエルに無心していますし、デュランリュエル自身も商売の停滞で
苦しかったようですね、ネットで調べてみると。
「これじゃ共倒れだ」と感じてアメリカ行きを決意したかどうかは知りませんが。
【】
パリの画商にはユダヤ人が多いようですがリュエルはフランス人だったかもしれません。いずれにしろアメリカでの個展が成功しなかったらモネの睡蓮の連作もなかったということでしょうね。当時アメリカは景気が良かったのか、フランスの画家に対しての憧れがあったのか、、、背水の陣で道が開けることは良くあります。
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Kazan

Author:Kazan

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宇藤華山(カザン)
東京芸術大学及び同大学院卒業 フランス政府留学生としてパリ高等美術学校で学ぶ。シャンソン歌詞の翻訳をしながらシャンソンを歌う。

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宇藤カザンのホームページ

英国の庭園とコッツウォルズ、フランス花景色、水彩画作品を紹介。

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