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アール・エ・メチエに住んでいた時だから最初の年ですが、フランス人とヴェトナム人の混血のクリスチアンヌと大学都市の中で知り合った。彼女は大学都市の寮に住んでいたわけではないが、学生食堂を利用したり日本館に住んでいたフランス人の友達のところに遊びに来ていたらしい。
最初にクリスチアンヌに会ったのは日本館のサロンだったが、フランス人は美しいと思っても恋人にしたいという気にはあまりならないけれど、フランス人と東洋人のハーフは魅力的だと思った。

彼女は僕の絵に興味を示し、ほめてくれ、一緒に食事をしたり音楽会に行ったりしたが、会話は全てフランス語だから、このとき僕のフランス語は格段に進歩したと思う。彼女はパリ生まれで、離婚したフランス人の母親と暮らしていたので、ヴェトナム人らしさは持ち合わせていなく、日本人同士のように話さなくても分かるみたいなことはなく、全てが言葉によるコミュニケーションだった。

まもなく彼女は僕の部屋に泊まるようになったが、1人部屋に外部の人を泊めるのは禁止されているし、毎朝必ず掃除のおばさんが来るので、隠しておくわけにはいかなく、あきれてはいたものの大目に見てくれた。

ほとんどのパリの学生は同じだが、二人とも貧乏だったので彼女との小旅行はいつもヒッチハイクで、カップルでヒッチをすると警戒されず車は良く止まってくれた。最近のヒッチハイク事情は知らないが、70年代ぐらいは学生に対しては助けようと言う気持ちがあり、根気良く試みれば何とかなったものです。

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パリの美術学校に通い始め、少し経った頃に1人部屋に移ることが出来ました。とはいえアトリエはありませんから狭い部屋で描くことになるのですが、同室者を気にしなくても済むのはありがたいことです。しかしこの頃あまり絵を描いていた記憶がない。

多分絵を描くよりも新しい環境に慣れることやパリの街を歩いて見る事の方が面白くて、小さな部屋にじっとしては居られなかったのではないかと思うのです。まあ絵はいつでもどこでも描けるけれど、この2年間は出来るだけパリやフランスを知りたいと思った訳ですね。勉強しなかった自己弁護かも知れませんが、、、、、、

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ここが新しい住居のアール・エ・メチエ館で、フランス館の一つです。

さてこの頃の生活は、毎月の生活費500フランを支給されるとまず寮費を支払い、1か月分の学生食堂の食券を買います。残りは自由に使えますが、大半を音楽会と交通費に使いました。この頃大学都市の近くのカフェのコーヒーが1フラン(60円)、学生食堂の食券が2フラン50サンチーム程度だったと思います。

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学生食堂は政府が援助しているので破格の安さで、月500フランではとても市内のレストランで食事をすることは出来ません。

よく言われるのですが、パリの街はお金あればいくらでも使って楽しめますが、無ければそれなりの楽しみ方があり、ただ当ても無く歩くだけでも街並みや建物のの美しさや人間観察で時間を潰せます。一杯のコーヒーで長い時間カフェのテラスに座っていることも可能だし、リュクサンブール公園やサンミッシェル界隈はメトロで簡単に行けたので良く行きました。


9月から新学期が始まるから、パリの美術学校に登録しなければならない。政府の留学生なので大学卒業の書類さえ出せば入学は問題ないが、後は師事する先生を選ばなければならない。

当時はサンジェ、マッティ、シャプランミディなどの教授がいて、シャプランミディは非常にアカデミックな絵を描き、当時の僕は今とは全然違う感じの油絵を描いていたので作風が合わず、結局現代的な画風のサンジェのクラスを希望した。

ところが他のクラスは生徒がまばらなのにサンジェのクラスはものすごく混んでいて、毎朝早くに行かないと描いている途中の絵をどかされて描く場所がなくなってしまう。

初めてパリの美術学校に入学したフランスや各国の学生と、今まで5年間東京芸大で絵の勉強をしていた僕とでは熱意の差があり、だんだん場所取り競争から外れていく結果となり、デッサン室で人体のクロッキーをしたりしていました。

政府から生活費をもらっているので形式的には学校に登録していなければなりませんが、行く行かないは自由です。

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パリの美術学校はボナパルト通りのセーヌ河に近いところにあります。

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入り口には二つの胸像が、、、誰でしょう?

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ここは彫像が立ち並ぶ大きなギャラリーですが、デッサンをしている人を見たことがない。

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いつでもモデルがいるデッサン室ではたくさんの学生がクロッキーをしているが、誰も昔の彫刻をデッサンしようとは思わないのでしょう。

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彫像もだいぶ欠けています。

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ボナパルト通りはサンジェルマン・デ・プレの教会からセーヌ河に抜ける細い通りで、教会の向かいにはレ・ドゥ・マゴのカフェがある。

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カフェはいつも混んでいます。場所がいいからね。

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美術学校の近くのボナパルトの通りは目立った店もなく、暗い感じがします。

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30十年以上前にサン・ジェルマンでマカロンを食べたことがあります。その時あまりのおいしさにびっくり!マカロンで有名なお店だったから多分ボナパルト通りのラデュレだったと思うのですが、最近ピエール・エルメのお店が同じ通りに出来ました。

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ピエール・エルメのマカロンは絶品。

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日本ではホテル・ニュー・オオタニにピエール・エルメのお店があり、マカロンも売っていますよ。

国際大学都市には各国の学生寮が立ち並んでいますが、パリに勉強に来る学生はすごく多いので国際大学都市に入居できる人はほんのわずかです。大半の学生は民間のアパートで暮らすことになると思うのですが、それでもこういう施設があるということは素晴らしいことです。

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ここが大学都市のメインゲートです。

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内側からゲートを見るとこんな感じです。

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ここは国際館で大学都市の中心的な建物で、事務所、会議室、学生食堂、屋内プール、音楽室などがあります。

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国際館の裏手には広い芝地が広がり、学生だけでなく近所のパリジャンの憩いの場となっています。

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ボルドーでのフランス語の語学研修は勉強したかしなかったか分からないうちに終わり、たいした成果はなかったように思うが、学生寮での生活はそれなりに楽しいものではありました。

人生は多くの経験の積み重ねであり、現在でも試行錯誤の連続ですが、若いときの海外生活は初体験ばかりですから新鮮な驚きが多かったと思います。でもフランス留学の間は政府によって生活が保障されているから楽なものです。

再び列車に乗ってパリに着き、僕はパリ市内の南の端にある国際大学都市の中の学生寮に入ることが決まっていました。
第一希望はアトリエ付きの部屋なのですがほんのわずかしかなく、給費留学生の中では年齢が若かったのですぐに入居するわけには行かずに空き待ちで、とりあえずはフランス館のドイチェ・ド・ラ・ムート館の二人部屋で、同居人はスペイン人でした。

建物は本部も含めていくつかあり僕が入居したのはパスツール館でした。

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これが本部の建物で教会や塔まであるのです。この建物群はドイチェ・ド・ラ・ムート家が主に航空産業と石油産業で成功し、パリ大学に高額の寄付したり、学生のための寮を建設して国際大学都市の最初の学生寮になったようです。

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こうして写真で見るとなんて素敵な環境と建物、と思うでしょうが部屋が暗く少しでも早く別の館に移りたかったのです。同居のスペイン訛りのフランス語もほとんど理解できず、彼は彼女のところに寝泊りしていたのでほとんど1人部屋に近かったのですが、部屋の明かりと言えば壁に取りつけられた小さな明かりと机のスタンドだけでしたから、本を読んだりの勉強には十分でも絵を描くには全く向いていませんでした。

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学生用の部屋です。

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こちらは教授とか研究者のためのアパルトマンだったと思います。


今回の遠足の最大の目的はサルラという中世の面影を留めた町でモリエールの野外劇を観ることでした。「いやいやながらに医者にされ」という喜劇です。
初級レベルののフランス語力では、とてもモリエールの台詞が理解できるはずはないのですが、喜劇ということもあって何とかストーリーは分かりました。

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サルラは1962年に文化相のアンドレ・マルローによる歴史的街並み保護法のもとで、中世の街並みが保存されることにより、観光客がたくさん訪れるようになりました。もちろん中心部には車が入ることは出来ません。

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土曜日の広場には朝市が立ち、観光シーズンにはすごい人出になります。

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エティエンヌ・ド・ラ・ボエティの生家

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レストランには夾竹桃

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夏の野外での食事は最高!

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ペリゴール地方はフォア・グラの産地

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ドルドーニュ川を更に上流に向かって進んでいくと渓谷になってきます。しかし川幅はかなりあり水はゆったりと流れています。

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ドルドーニュ渓谷でもっとも有名なのはベイナック城でしょう。

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崖の上に聳え、いかにも難攻不落な城砦という感じです。

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城の下には小さな村が崖にへばりつくようにあり、岩を削って作った岩窟住居も見られます。

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登るに従って道は細く急になります。

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城の入り口です。

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室内です。

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城からの眺めは圧巻です。

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静かに流れるドルドーニュ川。右の奥にはカステルノーの城が見えます。

ボルドーでの語学研修は授業が難しすぎるので初級のクラスを作って欲しいと頼んだが、急には無理な話で授業に出たりさぼったりしていましたが、3回目の遠足はハイライトのドルドーニュ渓谷です。

ドルドーニュ川はボルドー市内を流れるジロンド川の上流、はるかオーヴェルニュに源を辿ることが出来る美しい川ですが、ボルドー周辺及びドルドーニュ川流域はワインの産地です。

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バスは果てしなく広がるブドウ畑を進み、サン・テミリオンの町に着きました。

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サン・テミリオンも高級ワインの産地として有名ですね。

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サン・テミリオンからドルドーニュ川に沿って東に進み、ベルジュラックの近くのモンバズィヤック(モンバジャック)城で休憩。

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初めて見るドルドーニュ川流域の広大なワインヤードに感激です。

ボルドーの学生寮にはメキシコ、グアテマラなどの中南米、南イエメン、アラブ首長国連邦などの中東諸国、韓国、日本などの学生が多く居たがラテン・アメリカ系は明るく喜怒哀楽がはっきりしていて分かりやすく、アラブ系は何を考えているか良く分からないと言うか、価値観が相当違うという感じがした。たった一人だけ韓国の女性がいたが、なぜ1人かと言うとフランス政府の給費留学生枠が日本に比べると当時はすごく少なく、従って試験に受かるためには非常に優秀でなければならないのだが、彼女は日本と韓国への待遇の差に不条理さを感じていたし、何よりも反日教育で育っていたので日本人を相当警戒していたようだ。

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その彼女に芸大の楽理科の小林緑さんは根気良く話したりしながら少しずつわだかまりを解いて行ったようで、だんだん仲良くなり、日本人も韓国人もそれほど変わらないと思うようになったようだ。根底には儒教思想があるし、韓国人はやはり日本人に一番近いのではないかと思うが、中国人とは考え方にかなりの隔たりを感じることがある。

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それに比べるとフランスを知るための色々な情報は以前からあったから、あまり不可解に思うことがない。多分フランス映画やアメリカのTVドラマなどで無意識のうちに欧米の価値観に洗脳されて来ていたのだろう。小学生の頃はアメリカのホームドラマとか西部劇をテレビで良く見たし、アメリカ人のリッチな家庭は憧れであり、彼らの生活習慣も自然に学んでいたのだろうが、インドやアラブ、アフリカのドラマなどは全く放送されず、韓国のドラマだってごく最近になってテレビで観られるようになったばかりだから、欧米以外の地域の人の価値観をほとんど分かっていなくても止むを得なかっただろう。世界は広く全てを知ることは出来ないから、興味を感じた国だけでも知ろうとすればそれでよいと思うけれど。

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フランスが世界中の国からの留学生を受け入れているということはフランスは開かれた国であり、自国の良さを知ってもらいたく、フランス語を世界的に普及させたいという政府の基本的な姿勢があり、異国の文化が自分の国の文化や芸術を刺激し、多様な様式を生み出し、今でも変革し続けているからこそヨーロッパ文化の中心的地位を保っているのではないかと思います。


アルカッションの次の遠足はビアリッツでした。ビアリッツはスペインとの国境に近いバスク地方のビスケー湾に面する観光地です。

バスク地方というのはスペインとフランスにまたがる地域でスペインアルザス地方などと同様、その帰属を巡って争いが続き、バスク人は独立した国家を望むもフランス、スペイン政府は認めようとしないのでテロが絶えなかった地域です。

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サント=ウジェニー教会

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オテル・デュ・パレ(1854年にウジェニー・ド・モンティジョ皇后の別荘として建てられた。)

ビアリッツはニースやカンヌなどのあるコート・ダジュール程ではないにしろ、以前から王族や貴族の保養地として栄え、大きなホテルや別荘が立ち並び夏には海水浴客であふれます。

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バスク地方については以前から知っていました。それは芸大の演劇部でアラバールの「ゲルニカ」という劇を上演したのですが、その時に新聞記者の役で出たのです。その時主役のバスク人を演じたのが僕に留学生試験を一緒に受けないかと誘った清重君で、まさかゲルニカの町があるバスク地方に行くなんて、、、、不思議ですね。

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ゲルニカはスペイン内戦の折に1937にドイツ軍の空襲を受けて徹底的に破壊され、アラバールの戯曲もその情景を描いたものだったが、なんと言ってもピカソの絵によって人々の記憶に残ることになった。

Santa Águeda - A Traditional Basque Folk Song

Oihan (Spain-Basque song)

Le Basque by Marais ; Michala Petri & James Galway

当然のことながら語学研修の生徒にはフランス人はいなくてフランス人は先生だけ、寮にもフランス人はいなく、海外の留学生ばかりなので各国の訛りのあるフランス語を聞くことになる。もっとちゃんとしたフランス語を聞きたい!と思っても寮にはテレビもラジオもない。分からない語学研修は切り上げて早くパリに行きたい!と思ってもそうは行かない。

日本人のフランス語は当然日本語の訛りがあることになるのだが、個人差が大きく、かなりきれいなフランス語を話す日本人もいる。僕の考えでは日本人は他の国の人よりもきれいなフランス語を話すことが出来る可能性はあると思う。それは日本語が割りにニュートラルな発音でイントネーションの抑揚が少ない、つまりあまり癖がない言語なので、フランス語の日本語にない発音を習得さえすればきれいなフランス語を話すことが可能であると言えよう。

とはいえフランス語の母音、半母音、鼻母音、Rの発音などはなかなか難しいから、フランス語を習うなら発音のクラスの授業を受けることをお勧めします。僕もアテネ・フランセで発音のクラスの授業を受けたのは良かったと思っている。

ラテン・アメリカの生徒たちは上達は早いが、言語が近すぎるのでどうしてもスペイン語の癖が抜けず、queはフランス語ではクと発音するが彼らはケと発音してしまう。イントネーションもスペイン語そのものと言う感じできれいなフランス語とは言えない。ラテン・アメリカ人のスペイン語はスペイン人よりもイントネーションがきついですね。

アメリカ人の英語訛りのフランス語もいただけない。巻き舌だし英語のイントネーションがなかなか抜けないようで、中国人のフランス語も同じことが言えるが、個人差が大きく、またフランス人でも南部と北部とパリではだいぶ発音が違う。

一番フランス語の発音が美しい地域はロワール地方とされているが、それは多分スペイン語、イタリア語、ドイツ語、フラマン語、英語圏から遠い距離にあり、たくさんの城があったりして文化水準が高かったからでしょう。
それではパリの発音はというと、パリジャンは早口で、下町っ子的なべらんめえ調の発音だと言われるが、国際都市なのでなんでもありです。

ジャン・アレジと結婚した後藤久美子が見事なイタリア訛りのフランス語を話していましたが、フランスの地方で年寄りは訛りの強いフランス語を話しても、若い人は標準的なフランス語を話す。それはなんと言ってもテレビの影響で、テレビのフランス語が全国共通のフランス語の発音になるわけです。
去年フランス語圏のスイスの山奥の小さな村に行った時、みんなきれいなフランス語を話しているのが意外だったが、テレビではフランスの放送局のニュースや番組を流していたから、パリジャンと同じ番組を見ているということが分かり納得しました。日本でも地方の若い人は標準語も地方の言葉も両方話せるのが普通でしょう。

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今日の音楽はカントルーブの「オーヴェルニュ歌」から「バイレロ」です。

Baïlèro from Canteloube's Chants d'Auvergne

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同期の給費留学生の1人に芸大の先輩に当たる正木徹さんがいた。もちろん語学研修をボルドーで一緒に受けたのだが、彼はフランスに来る直前に結婚をしていて、彼はボルドーの後にマルセイユの美術学校に行くことになっていたので、奥さんとはマルセイユに行く前にパリで落ち合ったのだと思う。一年間のマルセイユ生活の後、パリに来られ、奥さんはパリの三越に長年勤めておられたが、定年を期に「私はこれからの人生をピアノを弾いて過ごすわ!」とばかりに毎日がピアノ三昧のようなのです。

フランス映画の"La Note Bleue"というショパンとジョルジュ・サンドの生活を描き、ソフィー・マルソーがサンド役をやった映画があって、フランスのTVで放映された時に僕も観たのだが、ショパン役はポーランド人のピアニストが演じていた。そのときはピアニスト、つまりショパンを演じていた役者の名前は覚えなかったが、後で「戦場のピアニスト」のサウンドトラックで弾いているピアニストと同じということが分かった。ピアニストの名はヤーヌシュ・オレイニチャク(オレイニチェク)。

正木夫妻はパリから車でポーランドまで住所も分からないまま彼を訪ねて行き、ようやくオレイニチャクに会うことが出来た。「戦場のピアニスト」はまだ世に出ていなく、"La Note Bleue"も特にヒットしたとは思えない映画だから、オレイニチャクはポーランドでは知られていたとしても、西側ではそれほど著名なピアニストではなかったのではないだろうか?
正木夫妻は彼の演奏にほれ込んでしまったようで、その後も何度か彼を訪ねてポーランドに行き、やがて彼をパリに招いてオレイニチャクのサロン・コンサートを企画するまでに至り、ついには日本でも2007年に彼のリサイタルを実現させたようだが、さすらいのカザンはコンサートの情報を知らなく、最近共通の友人と電話で話してようやく知ることとなった。

ところで"La Note Bleue"だが、Noteは楽譜のことで、なぜ青なのかが良く分からないのだが、日本でもDVDが発売されていて、そのタイトルが「ソフィー・マルソーの愛人日記」となるのはひどすぎる。ソフィー・マルソーはサンドの娘役で出ているのだが、このタイトルに釣られてDVDを購入した人は、ショパンがピアノを弾く場面のたくさんある映画に「騙された!」と感じるに違いない。「ブルー・ノート」では困るとしてもせめて「ショパンとジョルジュ・サンド」とか「ノアンの館」ぐらいに止めて欲しい。

「ポーランドは食事がおいしい!パリに近づくに従ってまずくなる。」と正木さんは言ったが、その真偽の程を確かめたく、僕もポーランドまでドライブしたいと思うのだが未だに実現していない。

オレイニチェクが演奏する「戦場のピアニスト」(これも原題は"The Pianist"のみ)のサウンドトラックによるU-Tubeがたくさんあって、先日のノクターンの演奏はオレイニチャクのものだということが判明した。そこで今日の音楽は20番の遺作のノクターンと共に大好きな19番のノクターンを聴きましょう。映画の中では演奏していなかったと思うのだが、他の曲もたくさんあるからお時間のある方はどうぞ、、、、

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"Nocturne in E minor, Op. 72, No. 1" - Chopin


フランス語の授業ばかりでは疲れるので、時々息抜きにバスでボルドーの郊外に連れて行ってくれる。最初に行ったのは、ボルドーの南、ヨーロッパ最大の砂丘があるアルカッション(アーカッション)という海岸です。

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この砂丘にはピラという名前が付いていますが、その高さにびっくり。

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どこからでも登れるのですが、樹海に面した斜面はかなり急です。

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でも頂上に登れば素晴らしい景色が待ち受けています。

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大西洋。海の向こうにはアメリカ大陸があるはず。ずいぶん遠くまで来たものです。

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今日の音楽はサティーのジムノペディ第1番です。

Gymnopedie


ボルドーでの語学研修が始まりました。もちろん初級のクラスなので、何とか授業にはついていけそうです。日本人のほかはラテンアメリカ系の学生がほとんどで、ヨーロッパ系とアメリカ人はいません。これからフランスで2年暮らすのですから、フランス語が分からなかったら大変という気持ちがありましたから先生の言うことは真剣に聞きました。

日本で半年ほど外国語を勉強しても、いざその国に行けば会話のスピードが速すぎてとても付いて行けず、何を言っているのか全く分からなく、所々に知っている単語を見つけて話の内容を推察することになりますが、勘違いすることも多く、質問に対するこちらの答えも的外れなことばかりだったでしょう。しかし周りが全部フランス語ですから日本で勉強するよりも数十倍のスピードで上達はします。

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ボルドーのリセ(高校)

だが、スペイン語を話すラテンアメリカ人の上達はものすごく早くて、言語が近すぎて発音にはスペイン語の癖があって良くはないのですが、彼らのフランス語の理解度にはとても付いていけず、彼らの水準に合わせて授業が進むので日本人の音楽と絵画の留学生はたちまち落ちこぼれとなってしまいました。

日本人の二人のピアニストはパリのコンセールヴァトワール(パリ音楽院)の試験が控えていて、留学生試験に受かってコンセールヴァトワールの試験に落ちたら大変ですから、かなりの時間ピアノをさらわなければなりません。寮だし、防音設備もないので夜は音が出せなく、昼間しか練習できないのでだんだん授業をサボり始めました。僕は別に絵を描くわけではないのですが、チンプンカンプンな授業に出るのも、苦痛だったので音楽の学生に付き合ってサボり始めました。

多分日本人の芸術系の留学生を受け入れたのは彼らも初めてで、これほど上達が遅いとは想像できなかったのでしょう。フランス文学志望の学生と同じクラスでは、幼稚園児が中学校の授業を受けるようなもので無理があります。

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ボルドー大学(医学部)

パリから6時間ほど列車に乗ってボルドーに着くと、また学生を扱う役所の人が駅に迎えに来ていて、すぐに宿泊先の寮に連れて行かれました。大学は夏休みですから海外や地方の学生のためのシテ・ユニヴェルシテールという大学都市には学生は9月の新学期までは誰も居ません。そこを語学研修のための宿泊施設として使わせていただくわけです。

パリに着いてからの先の予定を知らされてないので不安はありましたが、これから2ヶ月間ここで徹底的にフランス語を勉強するわけです。語学研修の間も生活費は支給されたし、昼と夜は学生食堂で食事が出来たので気持ちは落ち着きました。

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驚いたことにボルドーには蚊が居たのです。そこで天井から多分殺虫剤を含んだ黄色い蝋のような素材の板を吊るしましたが、そんなに効果はなかったので、仕方がなくスプレーの殺虫剤に頼ることになりました。フランスには網戸はありませんでしたね。イタリアでは蚊取り線香がありましたが当時のボルドーには売っていませんでした。その後パリやブルゴーニュに住みましたが蚊に刺されるということはありませんでしたが、蚊よりも厄介なものに刺されることになります。

古い記憶なので忘れてしまったことも多いのですが、語学研修が始まるまで1週間ぐらいは自由な時間があったと思います。
われわれ音楽と絵画部門の学生は演奏や作品で評価され、フランス語のテストはほとんど形だけですから、半年程度日本で勉強してもほとん役に立ちません。相手の言っていることがあまり分からず、こちらからはボンジュールとウィとノンぐらいしか答えられません。しかし音楽理論などを勉強する芸大の楽理科のKさんはフランス語がかなり出来ましたから、ずいぶん助けてもらったと思います。

学生寮には日本人だけでなくほかには中南米やアラブ諸国から来た学生が多くいて、韓国の学生も1人居ました。

絵画部門の学生は入学試験はなく政府の留学生は自動的に美術学校に登録できますが、器楽の学生は音楽学校への入学試験があります。ヴァイオリンやクラリネットは自分で持ってきた楽器で練習できますが、ピアノはすぐにも借りなければならなく、3日後には日本人2人とガテマラから来た男性のピアニストの部屋にピアノが入りました。

花房晴美さんはショパンのエチュード「木枯らし」とラヴェルの「水の戯れ」リストの「ダンテを読んで」を練習していて、毎日同じ曲を聴くことになるので、その後同じ曲を聴くとボルドーの頃の情景が甦ります。人それぞれ想い出の曲とか思い入れのある曲というものがあるでしょう。
僕にとって最も思い入れのある曲はショパンのノクターンの20番で、この曲にどれほど癒されたか分かりません。
初めて聴いたのはパリ時代の友人の田近完さんのショパン・リサイタルのアンコール曲で、ため息の出るような演奏が今でも忘れられません。
三連符で下降する音型の切なくも美しい響きが特に印象的で平原綾香の歌うノクターンもこの部分はアレンジしながらも取り入られています。

ショパン ノクターン第20番
前半だけの演奏ですがきれいな演奏です。

次の演奏もとても良いと思います。画像は「戦場のピアニスト」のものですが、演奏は違うように感じます。映画の中ではもっとテンポが速く、オレイニチャクの演奏は個性的な感じだったと記憶していますが、記憶は風化しますから、、、、
Chopin Nocturn

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もう一つ、ピアニストの名は分かりませんが、パリでのライヴ録画で流れるような演奏です。
NOCTURNE F. CHOPIN

フランへの出発は1971年6月でした。海外へ行くのは初めてで、当時はそれほど情報はありませんでしたから多少の不安はありましたが、それよりも期待が大きかったのはもちろんです。いったい荷物は何を持っていったのでしょう?すっかり忘れましたが絵の道具と辞書と衣類ぐらいで小さなスーツケースは一杯になってしまいます。

音楽と絵画の芸術関係の留学生が一緒のフライトでしたが、作曲の加古隆さんは試験のときフランス語の成績が良すぎて語学研修が必要ないということで9月に来られました。
長い飛行時間の果てにパリのオルリー空港に着いて驚いたのは6月だというのに冬用のロングコートを着ている人が居たことです。気候の予備知識のないわれわれは半袖とかショートパンツの女性も居ましたから、寒さで震え上がりました。添乗員なんて同行して居ませんから、空港に着くとCROUSという留学生を扱う事務所の職員が迎えに来ていて、その日はパリの学生寮のようなところに泊まったと思います。僕は当時は大学院生でしたからそれほどのことはありませんでしたが、ヴァイオリンやピアノの女性はまだ高校生でしたからどれほど心細かった事でしょう。

翌日は語学研修のためにフランスの南西部のボルドーへの列車に乗せられ、6時間ほどの列車の旅。パリはどこも見ずに一気に地方へ送られました。

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藤田嗣治「猫を抱く少女」

翌年もドランデール教授はまだ日本に居て、審査委員長だったので、給費留学生の試験には受かりました。僕を試験に誘った清重君は落ちたので、彼も本気で行きたければ僕を誘わなければいいのに彼は無欲なんですね。その後彼はイスラエルなどに旅行して、イラストを書いていたけれど今どうしているだろうか、、、、

教授はもうだいぶ前に亡くなられたので書いてもいいと思うが、彼はホモセクシュアル、つまり同性愛者の面もあり、フランスに行ってから迫られたことがあり、ちょっと困りました。パリの大学都市の日本館に住んでいたときもスイス人からお誘いがあり、全然その気がないので断りましたが、誘われやすいタイプだったのかなぁ。。。。

一応フランス滞在中の生活費は支給されるのだが、行きの飛行機代だけはこちらの負担になり、旅費をためなければならないので、出発までの半年間は徹底的にアルバイトをした。メインは大手町の電電公社での電話交換手と番号案内の仕事だったが昼間も事務とかクリスマスケーキ作りとか、もう忘れてしまったが色々なことをした。

当時はエールフランスでパリまでの片道切符が26万円だったから現在の貨幣価値で考えると70万円以上だったでしょう。まだ直行便はなく、インド、中東、ローマ、を経由して24時間ぐらいはかかったと思うが、藤田嗣治の時代には船で50日かけて行ったことを考えればそれでも驚異的な近さと言えるでしょう。フランスに行く以前にも国内線や宮古島などで飛行機には乗っていたが、小学生の頃は自分が将来車を運転するようになるだろうということすらあまり実感としてはなく、飛行機に乗って外国に行くなどと言うのは夢にも思わなかったのだから、劇的な変化の面白い時代を生きたのはラッキーだったと思う。

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藤田嗣治

今日の音楽は文章とは関係ないけれどサティーの「あなたが欲しい」

Satie Je te veux

それでは良い一日を!

芸大を卒業してすぐにプロの画家として生活していけるわけはないから、なるべく長く学生で居る必要がある。と言うことで大学院に行くことになるのだが、学科があるわけでもなく、出欠席も関係なく、ただ描く場所が確保されるだけですが、大学院に残れたのは幸いだった。

あるとき友人の清重君が構内の掲示板でフランス政府留学生の募集の張り紙を見つけて、一緒に受けてみようと言った。一応外国語はフランス語を取っていたものの、自分の力でフランスに行くなんて出来るわけがないと思っていたから、「へぇー、タダでフランスに行けるんだ。」と言う軽いノリで受けてみることに。

とは言うものの願書はフランス語で書かなければ、、、幸いカナダ人のカロン神父が聴講生として芸大に来ていたので、全部彼に書類を作ってもらって、、、でも、神父なのに芸大に来てヌードを描いているなんて、ちょっと不思議な感じです。それはともかく絵も適当にあるものを提出して、、、でもフランス語のテストもあるらしい、、、、まあ、だめもとだから、0点でも仕方がない。

ということで全くの準備不足で受けたのだが、当然落ちてしまった。だが、しかし、審査委員長のドランデール教授が僕の絵を気に入ってくれて、来年は受かるからフランス語を6ヶ月勉強しなさいとのこと、、、、受かると分かっているなら勉強しますとも。

お茶の水の「アテネ・フランセ」へ通いましたが、お茶の水は浪人のとき通った場所で、アテネ・フランセのある通りにはマロニエの並木があって、少しフランスが近くなった気がした。


萩原朔太郎の「純情小曲集」より

  旅上

  ふらんすへ行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背廣をきて
  きままなる旅にいでてみん。
  汽車が山道をゆくとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことをおもはむ
  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに。

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ルドン「ペガサス」

フランスの歌曲の作曲のデュパルクはあまり気に入らなかった作品を破棄してしまって、ほんのわずかしか残っていない。中でも有名なのは「旅へのいざない」で、歌よりもピアノのパートが印象的です。

フランスの男性バリトン歌手は本当に不毛で、スゼーなども若いときはともかく、近年の録音はどうも歌い方が好きになれない。

シャルル・ボードレールの散文詩の一節から。

   ご覧、あの船の着く岸を。
   そこにたどり着いて眠るさすらいの船。
   遠く世界の果てから船がそこに集まっているのは、
   君のささやかな望みを叶えようと、それを願ってのため。
   沈みゆく夕陽は、野にも川にも町にも金と紫の光をふりそそぐ。
   世界は熱い光に包まれてまどろんでいる。

   ああ、かの地にあるのは、秩序と美、豪奢、静けさ、そして悦楽。

今日の音楽はスゼーの若い頃と思うが、ピアノのボールドウィンとともに素晴らしい演奏です。

L'Invitation Au Voyage

人の運命は最初から決まっていると言う人もいるが、無宗教の僕はそうは思わない。いずれにしろ僕が東京芸大に行ったということは現在置かれている状況に決定的な影響を与えたことは間違いない。

高校3年生で芸大受験を目指していたとき、担任から慶応の経済学部なら受かるから芸大の滑り止めに受けたらどうかと言われたが、全然行く気がないところを受けても意味がないから、もちろん願書は提出しなかったけれど、もう1人芸大を目指していた女子がいて、彼女は芸大受験に失敗して、慶応の経済に行ってしまった。
先日高校の1年の時のクラス会があり、悠々自適かどうかは知らないが、半分はリタイアしていて、働いているとしても出向先の役員のような仕事が多く、既に第一線からは退いている人がほとんどでした。

僕がもしほとんどの生徒と同じように普通の大学に行っていたら、企業戦士として働き、全く別の人生を送ったことだろう。それに耐えうるものかどうかちょっと想像できないのだが、同時に二つの人生は歩めず、どちらが良かったかは永久に分からない。

小さい頃、家にピアノがあったりしたら、音楽家になっていただろうことは想像できるが、戦後すぐでは小学校低学年でピアノを弾いている生徒はクラスで1人ぐらいしか居なかった。現在音楽を職業としている人でも、声楽と管楽器以外はほとんど自分の意思というより、身近に楽器がある環境にあったか、親の意思で楽器をさせられた人がほとんどで、続けられず音楽から別の職業に転向した人は数知れずでしょう。

僕の場合は、音楽家になることは全く目標とは成り得なかったので、挫折感は皆無だし、一応まだ画家を続けているので、思うような絵が描けなくても実力が足りないと思うだけで、屈折した感情を持つこともない。
だが、もし第二の選択として普通の大学に行ったら、誰かの展覧会を観て、本当は自分の方が上手く描けるのに、などと勝手なことを考えないという保障はない。学生の頃はそのうち先生よりいい絵が描けるようになるだろうと、恐れを知らぬ思いを持ってしまう程だったと思うから、、、

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ルドン「ヴィーナス誕生」

今日はドビュッシーの「月の光」です。

この曲は初期の「ベルガマスク組曲」の中の一曲だが、どうしてベルガマスクかというと色々な説があるようだが、今歌っているフォーレの「月の光」にも「マスク(仮面)とベルガマスク」と言うフレーズがあり、ヴェルレーヌの詩から取ったとも考えられる。ヴェルレーヌにしても韻によるリズムのために選んだ言葉かも知れなく、アラベスク(アラビア風)とかベルガマスク(ベルガモ風)という言葉は、フランス語の音声的にもエキゾチシズムを醸し出す効果があるように思うから、それほど深い意味はなく、単にドビュッシーが語感的に気にいった言葉かも知れない。こう考えるのは自分の絵にタイトルをつけるとき、いい加減に付けていて自分でも何と言うタイトルだったか忘れてしまうのだが、ドビュッシーとカザンを同列にしてはなんとも失礼なので、ベルガマスクには余人の伺い知ることのできない深い意味があるということにします。

ピアノで演奏された「月の光」

Clair de Lune Piano

ギターの二重奏で演奏された「月の光」

Clair de Lune by Presti Lagoya

ヴァイオリンで演奏された「月の光}

Clair de Lune David Oistrakh


Kazan

Author:Kazan

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宇藤華山(カザン)
東京芸術大学及び同大学院卒業 フランス政府留学生としてパリ高等美術学校で学ぶ。シャンソン歌詞の翻訳をしながらシャンソンを歌う。

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宇藤カザンのホームページ

英国の庭園とコッツウォルズ、フランス花景色、水彩画作品を紹介。

http://utokazan.jp

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ラ・ボエーム
想いの届く日
夜のタンゴ

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